サラダバーの天使

 4つ下の少女、Mと出会ったのは僕が大学生だった頃の話だ。「大学生の頃」というのは正確ではない。僕が大学に籍を置きながら怪しげな仕事に手を染めていた頃というべきか。その頃の僕は汚いものを見すぎたショックで頭がおかしくなっており、人間を、特に若い女を同類と認識できなくなっていた。

 ある日、朝5時の街角をぶらぶら歩いていると、でかいキャリーケースをゴロゴロ転がして少女が歩いてきた。どうみても幼いその少女は、夜と朝が交差する音のない街でも異質な存在だった。少女の生気のない頬を朝日が照らす。大きな意志の強そうな目でまっすぐにこちらを見据えて近づいてくる。その光景をただ眺めながら道の真ん中で突っ立ていると、少女は僕の前まで来て言った。

「邪魔なんだけど」

 そのとき、ipodからはSlaughterの"Fly To The Angels"が流れていたので、僕は適当に天使みたいだねお前と投げかけた。目の前の少女は吹き出し、こんな天使がいたら神様も大変だよと相づちを打った。随分と大きなスーツケースだね。と続けると、少女はタバコに火をつけながら言った。

「そうだよ ここには天使のすべてが入っているからね。」

 天使には家がなかった。三日分の着替えと商売道具、いくつかの生活用品。早朝のファミレスで和風ドレッシングをかけたサラダをまずそうにつつきながら、少女は天使のすべてを教えてくれた。スナフキンみたいでかっこいいねと僕が言うと、少女はあきれた顔で返事をした。

「君本当に変わってるね。家がないって言うと大体みんなかわいそうな目で私をみてから、泊まっていきなよとか言うんだよね。優越感と性欲にまみれた顔でさ。」

 だって俺はお前の境遇にも、ましてや体にも全然興味ないもん。そう本音を言うと、少女はじゃあ何で声をかけたのと問いかけてきた。そう言われると、なぜだろう。少女に魅力を感じたのは確かなんだけど、僕はどちらかと言えば年上が好きなタイプだし、大体そのころは上辺だけ着飾った意地汚いメスのことが大嫌いだったはずなのに。そうだ、きっと君の全体はゾンビみたいに生気がないのに、瞳だけが生命力にあふれていて、そのアンバランスな雰囲気にひかれたんだよ。

「よくわからないけど、ほめてはいないね」

 僕たちはそれからよく一緒に朝ごはんを食べるようになった。別に何を話すでもなく、お互い好き勝手に過ごしていた。僕は大概本を読んでいたし、彼女は絵を描いたり窓の外をぼうっと眺めていたりした。女と朝食を二人で、SEXをした後でもないのに食べているのは、しかもお互い無言で過ごしているのはなんだかとてもおかしい気がするけど、僕と彼女にはなぜだかとてもしっくりしていた。

 今思えば、あの儀式は僕たちに取って手を洗い、うがいをするのと同じだったのだろう。人はあまり意識はしないけれど、心もたまに洗ってやらなければ濁ってしまうのだ。多くの人はケーキを食べたり、人に愚痴を言ったり、そんな些細な事をして心を洗う。それでもキレイにならなくなったてしまったら二週間ばかり海外に行ったりすればいい。だけれど、あのときの僕たちはただ精一杯生きていてやり方も知らなかったから、あの偶然生まれた朝ごはんの一時間三十分はとても貴重なもので、それによって生かされていたのだと今は思う。

 あれから僕は大人になって、朝ごはんに変わる色々な方法を見つけ出した。きっと少女も同じなのだろう。それでも僕はふいにあのまずいサラダバーを彼女と食べたくなる時がある。